ダーク ピアニスト
前奏曲2 霧のプロムナード



「ねえ、早く行こうよ! もっと早く!」
ルビーは久々に外に出られたのが余程うれしかったらしく、子供のようにはしゃいでいた。
「おい、待てよ。そんなに急がなくても公園は逃げたりしないぞ」
ブライアンは笑いながら彼を追った。
「公園は逃げないかもしれないけれど、人間はいつ死んでしまうかわからないもの。だから、僕は今のうちにちゃんと見ておくんだ」
「ルビー……」

●黒い瞳の奥に宿る真実。彼は濃密で意義のある時間を生きようとしていたのかもしれない。が、それは考えてみれば無理もなかった。彼らは常に危険な仕事を担っていた。人の命のやり取りは、即ち自分自身の命のやり取りでもあるのだ。ルビーにしてもブライアンにしても死線をくぐり抜けて来たのは1度や2度ではなかった。つい数週間前にもルビーは重傷を負い、ようやく復帰したばかりだった。それだけにそれは重い言葉だった。
「おまえ……」
思わず覗き込む。が、彼はもう無邪気な顔で笑って言った。
「あ! 見て! あんな所にウサギさんがいる! 僕達の方をじっと見てるよ。アハ。可愛い」

こんもりと茂った木立には様々な小動物がいて時々顔を覗かせていた。
「ルビーは動物が好きなのか?」
ブライアンが訊いた。
「うん。大好き! 花や鳥や緑、それに動物が好き! 自然の中を散歩するとね、とっても気持ちがよくなるの」
「それじゃあ、ここはうってつけの場所だな」
ゆったりとした自然に囲まれた遊歩道を歩きながらブライアンが言った。
「ほんと。素敵だよ。連れて来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
ブライアンはそう言って軽く深呼吸した。

「ところで、ルビー、付けられてるぜ、おまえ。とてもプロとは思えないアバウトなやり方だが、さっきからずっとおまえを見てる」
「ああ」
ルビーはちらと木の陰からじっとこちらを見ているもじゃもじゃ頭の男を見て微笑した。
「僕の友達のアルだよ」
「アル?」
ブライアンが尋ねる。
「うん。彼は画家なの。でも、気にしないでって」
「どういうことだい?」
「ずっと僕の後を付いて来てるの。僕が自然にしているところを描きたいからって……。自分は空気に溶け込んでいるから気にしないようにって……」
「ふうん。それはなかなか変わったお友達だな」

「あ! 見て! 今度はリスだよ。あ、ちっちゃいのもいる」
木の根の影に潜んでじっと様子を覗っているそれを見てルビーは喜んだ。
「動物が好きなら、今度は動物園にでも行くかい?」
「うーん。いいよ。動物園も行くけど、本当は自然のままのがいいの。きれいな自然のまま自由に生きているのがいいんだ。ドイツやフランスにもきれいな所がたくさんあったけど、イギリスにもきれいな所があるんだね。僕、あそこへ行ってみたいんだ。えーと、何だっけ? ウサギさんがいる所」
「湖水地方かい?」
ブライアンは走って行くリスの後ろ姿を見ながら言った。
「ああ、うん。そう。そんな名前だった。テレビで見たんだ。それから写真と絵本でも見たよ。すごくきれいだった」
「湖水地方……か。美しい所だよ。のどかで自然がそのまま残されていて……本当に……」
彼の中で遡る時間……。淡い水彩画のような思い出……。

――ブライアン、虹よ! 空に虹が出てる!

草の葉と少女の甘い香り……。
短い夏の時間……。
「どうして……?」
残されたのは1枚の絵……。

――人はどうして絵の中に入ることが出来ないのだろう。この絵の中のように、ずっと時間が止まっていたらいいのに……。幸せな時間のまま、ずっと止まっていてくれたら……!

(淡い色彩のそれは、目の前に広がる風景そのままに何もかもが描かれていた……。家も自然も空の色も……。人間だけがいなかった……。もしも、もう一度あの場所へ立ったら、同じ風を感じることが出来るだろうか? 亡くしてしまった者達の生きていた頃の時間を感じることが出来るだろうか? 黒くて堅い石壁の変わらない家……。心の中に凝縮された黒いスレート……。それを、何故おまえは……見つめるだけで氷解させて行く……。淡いパステル画のように霧が心をやさしく包む……。そして、あの絵に還って来る。柔らかな色彩の中で振り向くおまえ……あれはウサギ……? それとも……)

「ねえ、ブライアンは知ってるの? 湖水地方のこと」
「ああ……」

――ずっとこうしていられたら、どんなに素敵でしょうね

(二人、寄り添って飽きもせずに空を見ていた。
そんな二人をウサギが見ていた。
まるで絵本の中の挿絵のように……)

「よかったら今度、案内してやるよ」
「ホント?」
ルビーがパッと顔を輝かせて言った。その顔に、一瞬、少女の面影が重なる。

――ずっとこうしていられたら……

振り切るように視線を逸らして空を見つめ、ブライアンは言った。
「ああ。実は、あそこはおれの生まれ故郷なんだ」
「へえ、知らなかった。そうなんだ」
「そりゃそうさ。他の誰にも話した事ないからな」
「ギルにも?」
ルビーが少し驚いた顔をして訊いた。
「ああ。こういう世界では、プライベートの事はなるべく明かさないのが鉄則だからな」
「じゃあ、どうして僕には教えてくれたの?」
「さあ? どうしてかな……?」

流れる雲……。降り積もる時間の狭間で拾う夢の残骸……。

「けど、おれはおまえの事を知っている。なのに、おまえがおれの事に関して何も知らないのはフェアじゃないだろ? それに、そろそろ両親の墓参りくらいには行っておいた方がいいかなと思ってさ」
「ブライアンの両親は死んだの?」
「ああ。子供の時に……飛行機事故で……」
「飛行機?」

――どうして? 人間の裏切り? 空の報復? こんなにも憧れていたのに……!

憧れて……。

(しかし、雨が止んでも
もう、その空に虹は見えなかった。)

「テロに巻き込まれたんだ」
「テロ?」

――ねえ、マーシャ、知ってる? 空の上では、虹はまんまるく見えるんだって……空には境がないから……。

「それでブライアンはテロを阻止するスナイパーになったの?」
「そうだな。両親の敵とおれ自身の夢の敵を取るために……」
「夢?」
「おれは飛行機乗りになりたかったんだ。自由な空を飛ぶパイロットに……」

――だからね、マーシャ。ぼくは思うんだよ。空の上では人の心も丸くなって、きっと世界中の人と仲良くなれるんじゃないかなって……。ぼくは、そんな人々のやさしい心を運ぶパイロットになりたいんだ。丸い心をつなぐパイロットに……
――ブライアンならなれるわ。きっと!

頭上を渡る風と緑。湧き出る泉のように溢れ出る想い……。

「でも、実際には空にも国境はあるし、飛行機は監視されて飛んでるんだけどね。その頃はガキだったから空は自由だと思ってたんだ」
「うん。自由だよね。空は……本当は誰のものでもないんだ。実際には陸にも線なんか何処にもないのと同じように……」

その空に流れる飛行機雲……。心の中を過ぎる夢の爆音……。散って行く雲……。流されて行く想い……。霧の中に隠された真実……。

「悪かったな。くだらない話をしちまって……」
「いいよ。いろいろ知ってた方が身近に感じる事が出来るもん。ギルなんか何も話してくれないんだ。この間、初めて弟のこと話してくれたけど……」
「そうか。奴は医者になりたかったらしいよ。その弟のために……」
「ギルとはそういう話もするの?」
ルビーが白い花の付いた枝を指の先で突いて言った。
「いや。この間、一緒に飲んだ時、たまたまそんな話題になったんだ。だが、おれが知ってるのはそれだけさ。ただ……」
「ただ……?」
じっとその顔を見つめるルビー。瞳の中で揺れる花びら……。
「その弟はおまえに似ていたらしいよ」
「僕に?」
風に吹かれて散る花びらが、すっとその瞳に影を落とす。

「お兄ちゃんはやさしくしてくれるかい?」
「うん。やさしくしてくれるよ。そう。ギルはいつだってやさしい……」
(やさしくあろうとしている……)
「だが、不器用な奴だ」
「何故? ギルは何でも作れるよ。料理も模型も爆弾も、ギルは何だって……」
ルビーが不思議そうな顔をして言った。
「そうだな。だが、おれが思うに、奴は自分自身の感情についてはもっと素直になった方がいい。君みたいにね」
「僕? でも、僕は……」

――強情な子

ルビーは僅かに顔を歪めると、そっと胸に手を当てた。過去の傷が胸を抉る。
「おい、どうした? 傷が痛むのか?」
ブライアンが心配そうに覗き込む。
傷……彼の体に刻まれた無数の傷跡……。

――奴の服の下の傷を知っているか?
ギルフォートが言った。酒の席だった。
「傷?」
「そう。治らない無数の傷が……まるで……」
グラスに反射する光を見つめる彼は繊細な銀の匂いがした。
「初めは、傷もそんなに多くはなかった。薄く消えかけているものもあった。だが、今では、だんだんと数も増えて傷跡も深く醜くなって……。それで奴は未だに女を抱けないでいる。女達はみんな、奴の傷跡を見ただけで逃げて行ってしまう……。その事でどれ程ルビーが傷ついたのかも知らずに……」

「不憫な奴だな。その傷を治してやる事は出来ないのか? たとえば、そう。皮膚移植とか」
「それは無理だと医者が言った」
「無理?」
「拒絶反応を起こすんだ。しかも、自分自身の細胞でさえ受け入れようとしない。特異体質なのさ」
「だったら、これ以上傷を増やさないようにしないとな」
「そうさ。だから、『ヘビー ダック』が憎い……! 今回の事で付いた傷はこれまでの何倍もの傷を増やしたんだ……! 火傷とガラス片で出来た傷は痛々しかった。ルビーは子供のように泣き叫んだよ。治療の痛みと医者に対する恐怖、そして、一生消えない傷への苦痛と悲しみ……。おれならとても耐えられない……。だが、それでも、あいつは笑うんだ。愛らしい人形のように……」

――人形のように……

ルビーは微笑してブライアンを見た。
「ねえ、ギルは僕のこと好きでいてくれるかな?」
「何故そんな事を訊く?」
「多分、それは……僕が数を数えられないから……」
「大丈夫。奴はおまえが好きだよ。言ったろう? おれはもう随分長くあいつと付き合っているけど、奴の涙は初めて見た。その時わかったんだ。おまえが奴にとってどれ程大切な存在であるのかをね。その大切なおまえのことが嫌いである筈がない。そうだろう?」
「うん」
ルビーは安心したようにそこに広がる自然を見た。
「それじゃ、ブライアンは?」
「もちろん好きだよ」
と笑う。それを見てルビーもうれしそうにその顔を、空を見上げる。

「あ、雨だ」
いつの間にか空はどんよりと曇って霧のような雨が降り始めた。ブライアンが自分の上着を脱いで、そっとルビーに掛けてやる。
「いいよ。僕、大丈夫だよ」
「いいや。大事な坊やに風邪でも引かせちまったらまたウルフちゃんがしくしく泣いちゃうからな」
「本当? なら、僕、見てみたい」
クスクスと笑ってルビーは上着を脱ごうとする。それを慌てて止めてブライアンが言った。
「冗談。後でおれが恨まれちまう。さあ、おいで。あそこの店で雨宿りしよう」
ルビーの手を引くと小さなカフェに入って行った。

「それにしても、本当に雨が多いんだね」
「そうだな。大した降りじゃないんだけど、毎日のように降るな。傘がいるような雨はそんなでもないんだが、霧のような雨はここの名物といってもいいかもな」
「だからロンドンは『霧の都』って言われるんだね」
「そうだな。霧と伝説の街……」
「伝説?」
「ロンドンには不思議な者達が住んでいるのさ。さあ、話はあとだ。何を注文しようか?」
「僕、いいよ。帰ってからギルに作ってもらうから……」
「夕食にはまだあるさ。それに、奴は調べ物に夢中だからな。いつになるかわかんないぞ」
「でも……」
ルビーが困った顔をする。

「おまえ、イギルス料理はまずいからって思ってるだろう?」
「え? どうしてわかるの?」
「ハハハ。おまえってほんと正直だな。でも、今日はその認識を変えるようなおいしい料理をごちそうするよ」
「ホント?」
「ああ」
と、彼は笑って店の人を呼ぶと注文を入れた。
「紅茶とジャケットポテトを3つ」
「3つ?」
ルビーが疑問に思って訊いた。するとブライアンは店の窓から見える男を視線で示してウインクする。
「外にいたんじゃ冷えるだろう。差し入れてやろう」

見ると男はしきりにスケッチブックに何やら筆を走らせていた。

「どうだい?」
「うん。美味しい」
熱々のジャケットポテトを頬張ってルビーは満足した。そうして休憩している間にもう雨は止んでいた。
「よかったね」
遊歩道を歩きながらルビーがうれしそうに言った。
すっかりご機嫌のルビーが歌う。


銀の髪は天の色
雪の銀は天の闇
始まりはすべて銀色
世界を包む銀の闇
昼と夜とそれだけで
満たされていたその世界……

けれど、人は欲張って
虹の七色を欲しがった
それから人は色付きになり
色付きメガネで世界を覗き
人を、心を傷つけて
大事なものを失くして行った……
花ならきれいでいられたものを
人は比べてしまうから
きれいなままではいられない
たとえば色を塗り替えたとて
心に付いた染みは消えずに
歪む歴史の暗い影

だけど 神様は銀色が好き
天に咲いてる銀色の綿
それで世界を織り上げて
天と地とを繋いだの
だから 人は最後には
全ての偽りを脱ぎ捨てて
銀の髪に生え変わる

人は虹を掴もうとして
自らの儚さを知る
虹もまた光
1本の光
すべては
有り様と生き様を試す鍵

銀色の闇 銀の糸
天の調べを奏でてる
銀色の髪 その人の
やさしい翼に抱かれて
ただ一度だけこの空に
光の虹を掛けたいの
天の国から降り注ぐ
銀の光を集めてね
いつか 僕はなりたいの
闇を貫く銀の光に……


「へえ。すごいな。何の詩だい?」
ブライアンが訊いた。
「うーん、何か不思議だなと思って……。人間はいろんな色の髪をしてるでしょ? でも、年を取るとみんな白くなるから……。きっと最初は同じ銀色をしていたんじゃないかと思うの。天に咲いてた銀色の綿。それで髪は作られていて、最初はみんな同じだったんだけど、地上に降りたら、違う色がいいなと思って塗り替えたんだよ。きっと。けど、それはやっぱり偽物だったから年を取って天国が近くなるとみんな平等に元の銀色に戻るんじゃないかと思って……」
「君が作ったのかい?」
「うん。何か変かな?」
「とんでもない。すごくよかったよ。おまえには詩の才能があるんだな」
ブライアンが感心したように言った。

「ありがと。でも、初めが銀色なら、ギルは最初から銀髪でいいよね。僕は黒髪だから最も神様から遠い所にいるんじゃないかしら? 早く僕も銀色の髪になれたらいいけど、まだ全然生えて来ないの」
などと真剣に訴えるルビーの顔を見つめてブライアンは言った。
「そんな事はないさ。黒髪だからって神様に愛されてないなんて事はない。それを言うならアジア系の人はみんな黒髪だぜ。日本人だってそうだろ?」
「ああ、そうか。そうだよね」
ルビーが笑う。が、何となく寂しそうだったので更に訊いた。

「神様から愛されたいのかい?」
「うん。でも、神様より愛されたい人は他にいるの」
「他に?」
「うん。僕がこれから巡り会う人とそれと……」
そう言い掛けた時、向こうに立つ銀髪の男を見つけて、ルビーはにこにことその名を呼んだ。
「ギル」
ルビーがうれしそうに駆けて行く。

「何処へ行ってた? 外へは出るなと言ってあったろうが……」
ギルフォートは怒ったが、ルビーは彼を見上げて微笑んだ。
「平気だよ。ブライアンと一緒だったんだもの」
「雨に濡れたろう?」
「ブライアンが上着を貸してくれたから……」
「でも、もう冷えて来た」
と言ってジャケットを羽織らせる。それを遠目に見てブライアンが言った。
「それじゃ、お兄ちゃんが向かえに来てくれたようだから、おれはこれで」
と軽く手を上げ踵を返す。
「今日はありがとう。またね」
彼も手を振る。高い空の向こうから近づいて来るエンジン音……。霧と雲に覆われた空にその影を捉えることは出来なかった。が、確かにそれは南の空へ飛んで行った。掴み損ねた夢のパーツを乗せて……。

――またね

(ルビーか……。確かに大人なのか子供なのかわからない不思議な奴だ。が、恐らく……)
ちらと振り向くとルビーはうれしそうにギルの周りを子ウサギのように飛んだり跳ねたりしながらお喋りを続けている。
「おまえにゃもったいないぜ」
ふっと呟くと上着の襟を立てた。

「おい」
角を曲がると不意に男が話し掛けて来た。アルだ。
「ポテトの礼に忠告してやる」
高飛車な態度で男は言った。
「深入りはするな」
押し殺したような声で言う。
「どういう意味だ?」
ブライアンが問う。
「光も強過ぎると凶器になる」
「ルビーの事か?」
が、男は別の言葉を口にした。
「あんたに今の仕事は向いてない。早いとこ転職した方がいい」
「ハハ。いきなり何を言い出すのかと思えば……。だが、おれはおれが選んだ道を行く」
ブライアンが言った。転職など不可能な事だった。アルとてそれは承知していた。それでもあえて告げたのには理由があった。

「ルビーか?」
男が頷く。
「奴は何者なんだ?」
男はすっと目を細め、遥かな霧の向こうを見て言った。
「ジーザス」
その行く末にある未来を霧はぼかす。
「そうか」
彼は頷く。
「忠告してくれてありがとう」
ブライアン リース。彼はそれだけ言うと霧の彼方へと立ち去った。その背中を見送ると男は彼とは反対の方向、ルビー達が向かった別の未来へと歩き出した。